一言を思いやれる人に

この休み中の家族での一コマ。

「キモい」という言葉を長女が発していました。

次女が一生懸命作った粘土作品を見た時にとっさに長女が口にした一言。

たしかに形や色遣いがちょっとシュールで奇妙なところがありました。

ただ、私は次女が一生懸命その作品を作るのを見ていました。

「ここがママの部屋で、ここがパパの部屋で…」

そんなことを呟きながらパジャマを着替えもせず、朝から一生懸命作っていたんですね。

7歳の長女から見れば5歳の次女が作った作品は取るに足らないものだったのでしょう。

「自分だったらそんなものよりも、もっと良いものを簡単に作ることができてしまう」そんな思いもあったのかもしれません。

そんな長女からすれば、次女の努力や気持ちは分からないのも当然と言えば当然です。

ただ、怒ると直ぐに泣き叫ぶ次女が、「キモい」と言われたときにものすごく悲しい顔をしてただ黙っていたんです。そして、黙って目の前の粘土作品を眺めていたんです。それだけ深く傷ついたのだろうな…と思いました。

私は長女に「自分が頑張って作ったものを『キモい』って言われたらどう思う?よく考えてみなさい。」とだけ言いました。

(少し離れたところから見ていたら、長女が次女に謝っていたので少しホッとしました。)


大人になっても、一言の大切さは変わらないのかもしれません。

たとえばこのブログ。

何も知らない人に「つまらない」と一言いわれたら私は何と思うか。

もちろん保護者様や生徒たちに言われたとしたら、真摯に反省し「もっと面白くなるように、もっと読んでもらえるように」と自分自身もスタッフ達も努力をしなければいけない、と思うことでしょう。

でも、たとえば何も知らない同業の人に言われたら何と思うか。「こんな塾のブログ、自分だったらすぐに書ける」「つまらない」そう一言で済まされたら何と思うか。

私はこのブログを書いている講師たちの様子をいつも見ています。忙しい授業準備や指導の合間を縫って、それこそ休憩時間を削ってまで、いろいろ考えて書いてくれています。

ちょっとしたお知らせでさえ、「この書き方で伝わりますかね?どのタイミングで公開した方がいいですかね?」そんなことまで気を遣って書いてくれています。「昨日は〇〇さんがとても集中していた。なんとかそれを伝えたい。」そんな思いで、短い文章を何度も見直してブログ記事を書いている姿も見ています。

大学生のアルバイト達も何度も何度も我々に「この表現はおかしいですか?」「ここは書かない方が良いですか?」「これで伝わりますか?」と、後輩たちに少しでも思いが届くように本当に一生懸命書いてくれています。

そういうことを知らない人から上から目線で「つまらない」と一蹴されたら…。やはり私としては心穏やかに済ませることはできないだろうな、と。

我々は通ってくれる生徒さんや保護者様に何とか少しでも我々の人間性や日々の授業の様子などを届けられれば…という思いで、拙い表現ではありますが可能な限りブログを書いています。それを部外者のブログ評論家みたいな方から、一言「つまらない」などと言われたとして、「ご指摘ありがとうございます!はい、頑張ります!」と言うのは、ちょっと難しい話だろうな…と思うのです。

相手にとっては本当に些細な一言でも、私自身は深く傷ついたり、「許せない」と思うこともあるのだろうな、と…


私は学習塾講師なので、自分の子ども達にとっての勉強の重要性も分かっています。やはり自分の子ども達にも「勉強もできてほしい」とは思っています。

しかし、いくら勉強ができても、相手の気持ちやその人の背景などを何も考えずに批判したり見下したりするような言葉を発してしまう人間にはなってほしくない、と思っています。そういう「一言の重み」が分からない大人にはならないでほしいと思います。その一言を発する前に、「もしかしたら、これは相手がとても大事にしているもの(こと)かもしれない。」そう思いやれる人になってほしいと願います。

偉そうに書いてきましたが、それは私自身も同じです。「まだまだ言葉の重みを考えずに、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまっていることもあるかもしれない」私自身がまずそう気をつけないといけません。とくに学習塾講師は生徒さん達に言葉で指導を届ける仕事ですから。

(連休中なのに少し固い話題になってしまい、申し訳ございません。)

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