なぜ「大東小学校」がないのか?

大東西小学校、大東東小学校に通う皆さん。

また、大東中、大東西中に通う皆さん。

とにかく「大東」と名のつく学校に通っていたり、「大東」と名のつく公民館(大東公民館、大東南公民館)を利用したりしている皆さん。

不思議に思ったことはありませんか?

なぜ「大東小学校」という小学校がないのか。

「大東中」はあるのに、なぜか「大東小」はないのです。

私は今までぼんやりながらもこんなイメージを持っていました。

ちなみにこのイメージが当てはまるのは、武蔵野小、大塚小、新宿小の歴史です。

大塚小は1976年に武蔵野小から分離しました。その後、1982年に新宿小が武蔵野小から分離しました。

よって、武蔵野小、大塚小、新宿小はもともと一つの小学校だったんですね。

私は大東東小、大東西小もそうだと思っていたのです。

しかし、そうだとしたら武蔵野小が残っているように、もともとの大東小も残っているのが自然です。

ここで私は一つの仮説を立てました。

「今の大東中学校、川越南高校があるあたりにきっと大東小学校があったはず!!」という仮説です。

「それが何らかの理由で、分離した大東西小、大東東小を残して消滅してしまったのではないか…」と。

もしかしたら、その昔、大火災があり消失してしまったという悲しい出来事があったのではないか。

だから大東中の近くには消防署の分署があるのではないか。

まさに地域密着歴史の謎、です!!

そこでまず、大東西小、大東東小、それぞれの小学校の歴史についてネットで調べてみました。

まずは大東西小の歴史から。

大東西小学校の沿革

山城学校 ⇒ 発揚学校 ⇒ 日東学校 ⇒ 日東尋常小学校 ⇒ 日東尋常高等小学校 ⇒ 日東国民学校 ⇒ 大東村西国民学校【昭和18年11月3日】 ⇒ 大東村立大東西小学校 ⇒ 川越市立大東西小学校【昭和30年4月1日】

名前変わりすぎ…

ものすごい回数、名前が変わっていますね…

この名前の移り変わりを見てみると、一度も「大東小学校」という名前は出て来ません。

早速ですが、私の仮説は見当はずれの可能性が高そうです。。

次に大東東小についても歴史を見てみましょう。

大東東小学校の沿革

豊田小・武塚小 ⇒ 育英尋常小学校 ⇒ 太田尋常小学校 ⇒ 大東村東国民学校【昭和18年11月3日】 ⇒ 川越市立大東東小学校【昭和30年4月1日】

校章が大東西小学校と似てます!

やはりこちらも一度も「大東小学校」という名前は出て来ません。

私の仮説は完全に崩れ去りました…。

大東西小学校と大東東小学校はもともと全く別の小学校だったんですね。

それぞれが違う村にあった別々の小学校だったんです。

大東西小学校の住所は川越市山城です。

もともとそこは山城村と呼ばれる村でした。

大東西小は山城村の山城学校だったのです。

大東東小学校の住所は川越市豊田本ですが、やはりそこにはかつて豊田本村がありました。

大東東小は豊田本村の豊田小学校だったのです。

山城村はその後、大袋村、大袋新田、藤倉村、増形村と合併して日東村になりました。

豊田本村はその後、大塚新田村、南大塚村、豊田本村、豊田新田、池辺村と合併して大田村になりました。

そして、昭和18年11月3日に日東村と大田村が合併し、両方の名前をとって大東村ができたのです。

昭和18年11月3日。

もともと全く別の村にあった全く別の小学校が、この日を境に同じ村に存在する小学校になりました。

そして、同じ村の西と東にあるので大東村西国民学校と大東村東国民学校と呼ばれるようになりました。

昭和30年4月1日には大東村が川越市に編入されたことにより、2つの学校は今の名前になりました。

なぜ「大東小学校がないのか」の謎に対する答えは、ズバリ…

「大東小学校にあたる小学校がもともとなかったから」です。

あまりにシンプルな理由過ぎて、少し切なくなりますが…

気を取り直して、もう少しだけ続けます。

さて、ここまで来ると今度は中学校が気になって来ます。

「なぜ大東中、大東西中はあるのに大東東中はないのか?」という疑問です。

これはあっさり解決しました。

大東西中学校は、昭和62年に大東中の大規模化(生徒人数の増加)を解消するために作られた中学校ということでした。

武蔵野小⇒大塚小・新宿小と同じパターンです。

もし大東中学校の生徒数がもっと多くなっていれば、大東東中学校も水上公園の駐車場あたりに作られていたかもしれません。(川の近くで水害の危険性があるからそれはないか…)

同じ「大東西」でも小学校と中学校では、創設の流れや創設の時期が全く違うというのは面白いですね。

そういえば大東西小学校と大東西中学校は微妙に距離があります。

その微妙な距離も「創設の流れや時期が全く違う」というのが理由なのかもしれません。

ちなみに川越市の福原小学校、福原中学校はピッタリ隣同士ですが、ほとんど同じ時期に創設されているようです。

ピッタリ隣同士の学校がなんでそうなったのかを探るのも面白そうです。

そう考えると大東中学校と川越南高校がなぜピッタリ隣なのかも気になって来ます・・・が、今回はここまで。

これ以上、探っていくとキリがなさそうですし、「歴史には興味がない!」という人にはこのあたりが限界かもしれまんので…

最後に今回調べていて非常に気になったことが1点あったのでお伝えしたいと思います。

大東西小学校、大東東小学校の歴史の中で村の合併について書きました。

その中で「大田村」という村名が出てきました。

この「大田村」、名前の由来は合併前のもともとの村名から取ったそうです。

wikipediaにはこのように書かれています。

村名は南塚村・塚新田の、豊本村・豊新田のを組み合わせて大田村となった。

Wikipedia

ちょっと待て、と。

おかしいぞ?と。

なんか一つ忘れてないかい?と。

wikidediaの歴史の欄にはこう書いてあります。

1889年4月1日ー大塚新田村、南大塚村、豊田本村、豊田新田、「池辺村」が合併して大田村が発足。

Wikipedia

池辺はどこいった?

今も川越には池辺という住所があります。

塾の生徒さんでも、池辺から通ってくれている生徒さんもいます。

そして、生徒の皆さんも大好きな水上公園も大部分が池辺なんです!!

その池辺を完全に無視する「大田」村…

当時の池辺村の人達は怒らなかったのでしょうか…

非常に気になります。。

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