目標を下げる誘惑との戦い

プライベートの話になります。

という始まり方をすると、「どうせマラソンの話だろ?」と思う生徒たちも多いかと。

正解です。

マラソンの話です。

小江戸川越マラソンまで残り40日弱。

これまでのところ、今年の調整はあまりうまく行っていません。

例年よりトレーニングの距離は踏んでいますが、スピードが全くついてこないのです。

たとえば、1㎞をダッシュします。

例年ですと、この時期でも3分45秒~50秒くらいでは走れるんですね。

しかし、今年はどう頑張っても3分55秒が限界。

1㎞あたりのスピードが10秒程度遅いんです。

私の目標とするハーフマラソン1時間30分切りとなると、1㎞あたり4分10秒ちょっとで21㎞を走りぬかなくてはいけません。

すると、1㎞4分10秒はある程度余裕を持って走れるスピードでなければ、とてもじゃないですけど達成できるタイムではないんです。

1㎞全力で走ってギリギリで3分55秒しか出ないと、1㎞4分10秒というのは余裕を持って走れるスピードにはなりません。

現時点では目標達成はほぼ不可能というのが現実的な話にはなってしまいます。

そうすると人間、誘惑があるんですね。

「今年くらいは1時間35分でもいいんじゃないか?」

目標を下げる誘惑が出てくるんです。

仮に1時間35分に目標を下げてしまえば、おそらくこれから40日弱のトレーニングは相当楽になります。

今の走力でもかなり現実的に達成できる目標になります。

明日から追い込まなくていい、そう思うとそっちの目標に流れたくなります。

今の走力から残り40日弱で1時間30分切りという目標達成をするには、相当無理をしなければいけないことが分かっているんです。

目標を変えなければ確実に辛い40日間が待っている…。

こういうとき、私は常に辛い選択を取ることにしています。

なぜ「辛い」と感じるか。

それはそっちが「正しい」と自分で分かっているけど、「大変」であることも分かっているから。

「正しい」と分かっているけど、「失敗」する可能性もあることも分かっているから。

葛藤するからこそ辛い。

でも、辛いからこそそれが「正しい」のだと。

塾の講師としては、関係ない話なのかもしれません。

でも、ふと思うんですね。

妥協した目標を達成した自分と、最後まで可能性にかけた自分。

生徒たちから「先生、オジサンなのに結構すごいな。」と思われることに1ミリでも差が生まれるとしたら。

自分が最後まで可能性にかけて、あがき続ける意味は十分にあると思うのです。

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