「あつもり」と聞いたら皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
当たり前にニンテンドースイッチのソフト、「あつまれ動物の森」を思い浮かべることでしょう。
嘘みたいな本当の話ですが、私は初めて「”あつもり”が欲しい」と子どもから言われたとき、『敦盛』を思い浮かべてしまいました。
『敦盛』というのは幸若舞という日本の踊り芸能の演目です。
桶狭間の戦いの前夜、今川義元の領内進攻を聞いた織田信長は戦いの前にこの『敦盛』を舞ったと言われています。
当時の私にとっての「あつもり」は、ゲームではなく『敦盛』だったのですね。
そこから時が流れ、子どもたちが「あつもり」「あつもり」と話しているのを聞く中で、私の中で『敦盛』を舞う織田信長のイメージは薄れ、「あつもりと言えば、あつまれどうぶつの森」と皆さんと同じ感覚になってまいりました。
前置きが長くなってしまいました、すいません!!本題に移りたいと思います。
なぜ「あつもり」の話をしたかと言うと、先日の日曜日、「あつもり」の世界で花火が上がったそうです。
夜7時からの花火大会を子ども達は楽しみに待っていました。
本来、わが家では、日曜日の夜7時にはゲームをやってはいけないことになっています。
そんな時間にゲームをやっていたら、彼らはお母さんに怒られてしまいます。(私は卑怯なことに「お母さんに怒られるからやめた方がいいぞ?」というセリフをよく使います…)
しかし、今年は地元の狭山市の七夕祭りの花火が中止となっていました。
子ども達が母親の目を盗んで、頼み込めば簡単にYESを言いそうな私に向かって
「ねぇねぇ、今日の夜、スイッチやっていい?あつもりで花火大会があるんだよ。スイッチやってもいいでしょ?」と懇願(こんがん)してきたのです。
それを聞いて私は
(七夕祭りの中止だし、我慢ばかりさせても可哀そうだ…)と思ったんですね。
「よし、今年は本当の花火大会もないし、特別にやっていいよ!」と子ども達に言いました。
「やったー!やったー!」という子供たちを見て、ちょっとだけ良いパパになった気がするところが落とし穴。
今になって思うと、「花火大会がなくなった」→「あつもりの花火大会に参加」という選択はいかにも安易だな、と。
「なぜそこでゲームの力に頼らなければならないのだ?」と、冷静になって考えると思う訳です。
「花火大会がなくなった」なら、花火を近所のドラッグストアで買ってきて外でやれば良かったのではないか…と。
幸いにして私の住まいは狭山市のはずれの田舎なので、家の外で花火をやっても全く怒られません。
家の隣は森なので(森というか木が生えた斜面?)
きっと子供たちもゲームの花火大会よりも、実際に自分たちで花火をやる方が楽しかったはず…
では、なぜにその発想が私に出なかったのか。
いや、今だから言いますが、実際は夕方ごろにチラッとその発想は出ていたのです。
(ゲームの花火よりも実際に花火をやった方がいいのではないか…?)と。
私は逃げたのです。
日曜日の夜くらいテレビを見ながらのんびりしたい、という欲望に負けたのです。
でも、「お父さんはテレビを見ながらのんびりしたいからゲームでもやっててくれ。」とは言えません。
だから、「花火大会も中止になっちゃったし、仕方ないから今日だけ特別にやってもいいよ!」と言ったわけです。
塾講師、とくに私は塾長という立場ですから、本来は「ゲームばかりしてちゃいかんぞ!」と言わないといけないのかもしれません。
それなのに自分が休みたいからといって、何の工夫もせずにゲームに逃げてしまうという意志の弱さ…
普段、皆さんが休み時間にスマホをいじってるのを見て、
「スマホ依存になってないかい?ちょっとは我慢した方がいいぞ?」
などと偉そうに言っているくせに、自分自身は家で自分の都合によってゲームの力を借りているという卑怯な事実…
猛反省したいと思います。。
今後、同じような状況が訪れたら「子供たちが可哀そうだ…」という大義名分を隠れ蓑にするのは止めます。
「自分が楽をしたいから…」という事実に向き合って、しっかり父親として汗水流そうと思います!