実感はぜんぜんありませんが…最後です!

今まで何度となく聞いてきた言葉ですが、まさに「平成最後」の日です。

「平成最後」と使うのもこれで最後、みたいなことを言うのもずいぶんとくどいですが…。

実感はぜんぜんありません。

今日も中学生は2時から中間テスト対策に来て、いつも通りに勉強をしています。(小学生は今日、明日と授業はお休みですが。)

私もいつも通り、皆さんにやってもらうための課題を印刷して、皆さんの勉強を観察して、何も変わらない一日が過ぎていくような気がします。

無理にでも時代を振り返ろうとしても、私自身「平成」という時代を語れるほど、その前の「昭和」を覚えていないので難しいのですが、それでも「昭和」に比べるとずいぶんと難しい時代になったようには思います。

今の中学生には想像もつかないことでしょうが、われわれが小中学生の頃にはスマホを持っている人なんか一人もいなかったのです。それどころか、ガラケーと呼ばれるような携帯電話すら、持ち始めるのは高校生でやっと、というような時代でした。

またMDという言葉を皆さんは知らないと思いますが、私が高校生の頃なんかこのMDプレーヤーを持つことが、一つの「最先端」でカッコいいステータスだったんですね。(MDとは小型のCDみたいなものです。ただし、CDと違ってディスクがプラスチックのケースに保護されていました。)今の皆さんは音楽を聴くのにCDも必要なければ、当然MDも必要ないですよね?ネット上の音楽配信サービスからダウンロードしてしまえば済んでしまいます。

私なんかは初めて携帯電話を持った時、MDを持った時、パソコンを持った時、そういう一つ一つを手に入れたこと自体に大きな衝撃とか喜びを感じたものですが、皆さんはもっと先のもっと複雑な喜びとか幸せを見つける世代なのかなとも思います。

平成のはじめ、両手でしっかりつかまなければ持つことができないほどの大きさの白黒画面のゲームボーイをやっている少年たちが公園にはいました。今、平成の終わりの公園にはフルカラーのスマホのゲームで、そこにはいない世界中の人たちと片手で遊んでいる少年たちがいます。そう考えれば「平成」という時代が何というスピードで進んで行ったのかが分かるような気がします。

ただ、私はこの学習塾という仕事を通じて、ひたすらに教科書に向き合う、ひたすらにノートに向き合う、ひたすらに問題集に向き合う、そういう地道で忍耐力が必要な勉強の大事さ、それは変わらないような気がします。

教育業界もこの「平成」の時代を通していろいろ言われてきました。詰め込み教育、ゆとり教育、脱ゆとり教育、そしてこれからの時代のアクティブ―ラニングやプログラミング教育…。

それでもずっと昔から続いている見る、聞く、読む、書く、覚える、点数を取る、そういう地道な学習の重要性は何ら変わることのないような気がするのです。(もし仮に変わっているのであれば、今頃山口学習塾のような古臭い地道な学習塾は続いていないと思います。)

明日から新時代の令和を迎えますが、新年度の方針や意気込みは3月が始まる時点ですでに新たにしていますので、明日から特別に何かを、ということはございません。強いて言えば、一学期中間テストで結果を出せるように明日も明後日も変わらずに、中学生の勉強を追い込んでいく、ということでしょうか。

皆さん、明日からも変わらずに頑張りましょう!

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