ピカソが描いた絵と私が描いた絵、二つが並べてあったとして。
皆さんはどちらが欲しいですか?
「ピカソの絵!!」
皆さん、即答すると思います。
自分で言っておきながらですが、欲しいかどうかで聞かれたら私自身も
「ピカソの絵!!」
と即答します。
まあ、やっぱりピカソの絵は貴重ですもんね(;^_^A
では、ピカソが描いた絵と私が描いた絵、どちらが美しいでしょうか?
仮に私が絵画を幼い時から習っていたとして。そして美しい画を書く技術があったとして。
作者名が伏せられた状態で2つの絵を見比べた時、本当に美しいのはどちらなのか。
もしかしたら、私が描いた絵を選ぶ人もいるかもしれません。
でも、作者の名前が「こっちはピカソで、こっちは山口」と分かった瞬間、多くの人の中で美しさの評価も変わるような気がするのです。
色使い、絵の構成、絵が醸し出す雰囲気。それら以上に、「ピカソが描いた」という事実と「ただのそこら辺のオジサンが描いた」という事実が、美しさに大きく影響してしまうのではないでしょうか。
そんな話が、先日通勤途中に聞いていたラジオで流れていたのです。
われわれは自分自身が心のままに感じる美しさよりも、「希少性(今の言葉でいうレア度)」とか「有名である」とか、そういう要素で美しさを判断してしまっているのではないか、と。
どこかの山奥に有名な湧水があったとして。
その水を飲んだときに「あぁ、なんてこの水は美味しいんだろう。こんなおいしい水を恵んでくれる自然に感謝したい!」と多くの人が思うかもしれません。
一方で、いつも使っている蛇口から出る水に感謝する人はほとんどいないと思います。もちろん、私もその一人です。
でも、考えてみれば蛇口をひねれば飲むことができる水道管が家まで繋がっているってすごいことですよね?
水道管を整備した人達の苦労もそうですが、水道管や蛇口という技術を開発した人たちがいて、今私たちは当たり前のように家で、学校で、塾で、外のお店で水を自由に使うことができるのです。
今、私が蛇口をひねって出てきた水の一滴には、多くの人の歴史が積み重なっているんです。
京都の銀閣の近くに哲学の道という道があります。
哲学者の西田幾多郎さんが散歩をしていた道だそうです。
春になると桜が咲き、非常に美しい景色になるのだそうです。
きっとその桜を見ると、「なんて美しい桜だろう。なんて美しい道だろう。やっぱり京都は違うな~。」と感動すると思うのです。
でも、きっと私たちの近所の桜も哲学の道に咲いている桜と同じような色をしているはずです。
そして、その桜の花を咲かせるために知らない誰かが、きっと毎年手入れをしてくれているのだと思います。
自分の家の前の道路を有名人が散歩したことはきっとないでしょう。
でも、その道路を作るためにどれだけの人が汗を流したのか。道路を作るアスファルトを発明するためにどれだけの人が知恵を絞ったのか。そして、その道路があることで自分を含め何人の人が助かっているのか。
有名な飲食店に行って、行列にならんで、出てきた料理に感動します。もしかしたら写真を撮ってSNSなんかにあげるかもしれません。
食べ終わった後も、「こんなにおいしい食事を作ってもらってありがとう!」とお店の人に感謝の気持ちを持つかもしれません。
一方で毎日出してもらう家の食事は当たり前のように食べ始めます。
「いただきます」とは言うかもしれませんが、感謝の気持ちを込めて言っているかというと、そうでもないかもしれません。
でも、毎日の食事を作ってくれるお家の人は、仕事をしている中で、あるいは他の家事もしなければいけない中で、栄養を考えたり、同じような料理が続かないように気を使ったり、家族の好き嫌いに配慮したり、毎日毎日隠れた苦労の中で食事を作ってくれているのだと思います。
それらのことを考えると、私自身、なんて日常の当たり前を軽々しく扱ってきたのだろうか…と。
当たり前にあると思っているもの、当たり前に続くだろうと思っているもの。
いや、当たり前すぎて「思う」ということすら意識が及ばなかったもの。
先日のラジオを聞いて、「いろんなことを当たり前に流して来てしまったのかもな…」と寂しい気持ちになりました。それと同時に、「当たり前だと思って感謝をして来なかったことがだいぶ多いのではないか」と情けない気持ちにもなりました。
小中学生である生徒さん達に向けて、今日の記事はなかなかピンと来ないかもしれません。
「私自身が思った」ことであって、生徒の皆さんに「こうした方がいいよ」という説教くさいことを言うつもりはありません。
私自身は、まず、毎日子どもの世話をしてくれ、遅い帰りにも関わらず私の食事も用意してくれている妻にはもっと感謝をしないといけないな、と思いました。「当たり前だと思っていることに感謝する心」を持てるようになりたいと思いました。