西尾維新『クビキリサイクル』

 突然ですが皆さん、身近に天才だと思えるような人はいますか?エジソンやゴッホ、ダヴィンチやゲーテなど歴史を見れば天才と呼ぶに値する人は数えきれないほどいますが、彼らの才能そのものに触れる機会は、今となってはほとんどありません。ゲーテやダヴィンチの作品に感動することはあっても、電球を見つめてエジソンの英知を感じることはないでしょう。せいぜい目を傷めるだけです。

 人の能力を正確にはかるのは簡単なことではありません。例えば武田さんと上杉さんという二人の学生がいたとします。二人は同じ内容のテストを受けて、武田さんは一日中勉強して100点を取り、上杉さんは少しも勉強しないで95点を取りました。この場合「頭が良い」と言えるのはどちらの学生でしょうか。成績がいいのはもちろん武田さんなのですが、上杉さんだって一時間ほど勉強したなら100点を取れたかもしれません。点数だけを見て武田さんのほうが頭が良いと断じるのは、結果主義のような気もします。努力することも賢さの範疇だとするなら、頭が良いのは武田さんだと言えます。

 他にも例えば、同じテストを受けて、武田さんは99点、上杉さんは1点を取ったとします。点数の差は歴然ですが、上杉さんが解いた問題はそのテストの中で最も難しかった問題で、武田さんはその問題が解けませんでした。さて、この場合頭が良いのはどちらでしょう?

 絵画を鑑賞したり音楽を深く理解したりするのにある程度の知識が必要であるのと同じように、人の能力を正確に把握するのにも人を見る目が必要です。ペーパーテストで測ることができるのは人間のごくごくわずかな範囲の能力でしかありません。人の能力を測ることは同時に、自分自身の能力を測ることにもつながっているのかもしれません。

 西尾維新 著『クビキリサイクル』は何人もの天才が登場するミステリーです。「天才」とはそもそもたくさんの凡人がおり、その比較で圧倒的に抜きんでている人がそう呼ばれるべきで、普通、天才が何人もいるわけがないのですが、この作品に出てくるのはそんな道理も超越したような、まぎれもない天才たちです。しかしそんな絶対的な存在であるはずの天才でも、ある種、弱い部分があったりして、必ずしも唯我独尊な存在なのではなく、他人とのつながりや関係を肯定します。そんな両義性が、天才の天才たる所以(ゆえん)なのかもしれません。

 西尾維新はローマ字表記にすると「NISIOISIN」になり、上から読んでも下から読んでも同じ読みになる回文になっています。この名前に表われているように、作中では言葉遊びが多用され、ストーリーだけでなく文章のレベルでも楽しむことができる作品になっています。ぜひ、お手に取ってみてはいかがでしょうか。(大崎)