弱さとコミュニケーション

 突然ですが皆さん、ロボットは好きですか?私は高校三年生の頃、寄せ書きみたいなもので「表情があまり変わらないからサイボーグかと思ってた」と書かれたことがあります。ですから(サイボーグとロボットは結構違うのですが)ロボットには多少の親近感があったりなかったりします。

 さて近年、ロボット産業は急速に発展し社会に様々なロボットが浸透してきています。塾にもお掃除ロボットがありますよね。仕事の半分ほどがロボットにとって代わられるとか、2045年には人工知能(AI)が人を超えるシンギュラリティが到来するとか、危機感をあおるようなこともしばしば言われています。それほどまでにロボットやAIの発展には目を見張るものがあります。

 そこで話題になってくるのが、AIやロボットと人の違いです。人間とロボットを隔てているものは何でしょう。

 生物と無生物の違いはもちろんあります。生物の定義は「代謝を行うこと」「外界と区別がされていること」「自分の複製を作ること」の三つだと言われています。この三つの条件を満たすロボットが現れれば、そのロボットは生き物だと言うことが出来るかもしれません。

 意識の面ではどうでしょう。人間には意識がありますが、AIなどには意識がないかもしれません。人間の意識が狩りや農耕、道具作りや社会性の獲得といった進化の歴史を経て、生存に有利なものとして形成されたのだと考えれば、そういった生存戦略の歴史を持たないAIが意識を持つことは不可能かもしれません。

 しかしAIが意識を持っていないことをどうやって確かめればいいでしょう。例えば精巧に作られたロボットに「人間みたいな意識は持ってないんですよね?」と聞いたとします。そこでロボットは「イイエ、ワタシニハ、イシキガアリマス」と答えたとしましょう。その場合、ロボットに意識がないことを客観的に証明することは可能でしょうか。プログラムに従ってそれっぽい言葉を言っただけだ、とみなすことは可能かもしれませんが、それでは意識の有無を証明したことにはなりません。

 同じことは人間どうしにも言えます。私が誰かに(例えば樋口先生とかに)「先生には意識がないんですよね?」と訊いたとして、相手が「意識かあ、たぶんあると思うけどね。私も一応人間だし」と返答したとします。しかし相手がそう言ったとしても、私の目からは意識があるかどうかを確かめることはできません。その相手が単に私の言葉に対して、そのように返すように創られた存在であるかもしれないからです。意識とはそもそも主観的なもの。他人に意識があるかどうかを客観的に確かめる手段は、今のところ存在しないと言えます。

 岡田美智雄 著『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』は人間の助けを経て動く「弱いロボット」の研究を通して、私たちのコミュニケーションや行動とロボットの動きを比較してみる本です。

 例えば先ほど話にも挙げたお掃除ロボット。お掃除ロボットは周囲の障害物を感知し、壁や家具などの障害をうまくかわして部屋を動き回ります。一方、私たち人間は町を歩くとき、看板や標識などの周り情報を読み取って動きます。こうして考えてみると、ロボット掃除機も人間も、周囲の環境に大きな影響を受けて次の行動を決めているという点で共通の性質を持っていると言えるかもしれません。

 また、塾の清掃をロボット掃除機に任せていた時、私たちは掃除機がうまく動けるように椅子を机の上に持ち上げていました。掃除の手間は省けたわけですが、その代わり椅子をあげるという他の仕事が増えました。本来、ロボット掃除機は私たちを助けるために購入されたのですが、これだとロボット掃除機が私たちを助けているのか、私たちがロボット掃除機を助けているのか分かりません。

 このような助け合いのような関係が「弱いロボット」と人間の間に成り立ちます。お掃除ロボットがどこでもすいすい動けるような万能なものだったなら、我々の手助けが介入する余地は存在しませんでした。狭いところを動くのが得意でないという「弱さ」が、人間の助けを誘発したのだと言えます。赤ちゃんがよわよわしくてかわいいのは、大人の助けを引き出すためだと言われたりしますが、それと似たようなものでしょうか。

 だいぶ長くなってしまったので、今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。岡田美智雄 『〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション』ぜひお手に取ってみてはいかがでしょうか。

 (先日、気づいたらロボット掃除機が教室からいなくなっていました。悲しい)